FC2ブログ

哲学科卒のサラリーマンによる戯言~自由及び生の考察~

若手サラリーマンの日常。そして、哲学や思想。

何よりも残酷なもの

死とは、この世との決別である。
二度と戻ることはできず、この世に触れることもできない。
死によって、われわれはこの世にとって、よそ者になってしまう。

果たして人は死ぬのか?

精神が生きている限り、人間は死なない。
身体的な死は人間の死ではない。
精神は不滅であるため、肉体が滅んだ後もわれわれは生き続ける。

上記のような話もあるが、受け入れ難い。

精神と身体、二つで一人の人間だとしよう。
構成要素の一つである身体が消滅する。
半分の精神は生きているが、精神はそれ単体では活動できない。
少なくとも、われわれの住む現世では。
身体は消滅し、精神は機能を停止する。
この状況は、まさに死ではないのか。

われわれの身体は、精神にとっての入れ物にすぎない。
だから、身体が死んだ後、精神は次の身体を探しそこを住処とする。
精神が不滅であるため、別の入れ物を手に入れることで、われわれは生き続けることができる。

これを私と呼ぶことができるだろうか?

もはや別人である。
精神にとっては、入れ物かもしれないが、身体にとっては唯一無二の私なのだ。

ある精神とある身体との合体、これは一度しか行うことができない。
だからこそ、われわれ人間はそれぞれが一度きりの存在なのだ。
一度きりの存在である身体が死んだとき、私も死ぬ。


自分の死を経験することはできない。
だから、死は常に他人のものであり、私の死はないのだ、という不思議な主張がある。

ふざけないでいただきたい。
私の死は紛れもなく私にとっての死だ。
死は常に死ぬ本人、当事者の問題だ。
生きている第三者はその死を傍観することしかできない。

私の死を経験することはできないとしても、私が死んだという事実を覆すことは不可能だ。
1は数のうちに入らないかもしれないが、1という事実は疑い無く起きている。
同様に、私の死を経験できなかったとしても、私の死という事実は起こっている。

この世から私が消えてなくなる。
この壮絶な事実にフタをするには、私の死はない、というのはいい考えだ。
だが、そのように逃げたところで、私が死ぬという事実は変わらない。


来世でまた・・・というのもよく聞く。
来世に備えて現世を生きている、というものだ。

来世があるのなら、そこに行ってから身の振り方を考える。
焦らなくてもいずれたどり着くのだから。
それに、来世での処世術を私は知らない。
気を揉んだところで、それこそ徒労というものだ。

来世がわれわれを待っているとして、現世を十分に生きることのできない人間が、どうして来世でうまくやっていけようか。
まずは、現世を十分に生き抜くことを考えよう。

もっとも、来世があるか・ないか、は問題ではない。
この世から消えてなくなることが問題なのだ。



われわれは現世にいる間は、現世しか知ることができない。
ならば、現世に可能な限りしがみつこうではないか。
醜くも美しい現世に。
生きていることは辛いかもしれない。
しかし、死して全ての可能性を断ち切ることもなかろう。




死を受け入れる必要はない。
むしろ、死ぬ瞬間まで死を拒み続けよう。

私は死にたくない。
関連記事
スポンサーサイト






このエントリーをはてなブックマークに追加

スポンサーリンク
[ 2013/09/06 21:59 ] 人生 | TB(0) | コメント(0)
コメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する
トラックバック
この記事のトラックバックURL

プロフィール

智葉 哲三(ちば てつぞう)

Author:智葉 哲三(ちば てつぞう)
自由、幸福な生を主題に哲学します。学生時代はアリストテレスの『ニコマコス倫理学』から幸福を考察した。都内でサラリーマンを始め転勤で新潟へ。まだ若手。日常の出来事なんかも書きます。
連絡はこちらへ tetsuzou.c@gmail.com
★当ブログはリンクフリーです★

twitter
検索フォーム