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哲学科卒のサラリーマンによる戯言~自由及び生の考察~

若手サラリーマンの日常。そして、哲学や思想。

世界は残酷である

世界は幸福で溢れている。

同時に、幸福を阻害する出来事で溢れている。

争い、裏切り、不慮の事故。


幸福とは状態ではなく活動である。
例えば、幸福を感じている人がずっと眠った状態であるならば、その人を幸福とは呼ばないだろう。
幸福であった人、とは呼ぶかもしれないが。
(幸福であった。虚しい響きである。過去形はどうにも虚しさを孕むように思える。)

幸福である人は例外なく活動をしている人である。

そして、活動によって衝突が起こることは避けられない。
犬も歩けば棒に当たる、ではないが、ある活動とある活動は必ず衝突するのだ。

とはいえ、その衝突それ自体が悪いのではない。
若い男女の衝突は、恋愛に発展するであろうし、野心溢れる起業家の衝突は新たな事業を生む。
この先の彼らの将来を予測することはできないが、願わくば幸福へと辿りついてもらいたいものだ。

衝突によって他者と共に幸福へと至る入口をくぐることになるのだ。
しかし、それは同時に不幸への入口でもある。

くぐった時点ではどちらに進むかは分からない。

衝突は出会ったときにだけ起こるわけではない。
それぞれが活動をする限り、何度でも発生する。

ときに、その衝突は幸福へと進み、ときに、その衝突は不幸へと進む。
そして、最終的に幸福、又は、不幸に到達する。



だろうか?



不幸に到達することは簡単である。
劇的な決別が実現すれば、それだけで不幸と呼べるだろう。

しかし、幸福はどうだろう。
どこにいけば、幸福が実現したと言えるのだろうか?
いかに幸福な状態が続いても、いずれは別れがやって来る。
避けようのない、死別という別れが。

人は死ぬと活動が停止する。
つまり、幸福という活動をすることができなくなる。

いかに幸福と見えても、最終的には活動停止が待っている。


われわれは、活動する限りにおいて、幸福へ至る道を歩くことはできる。
しかし、幸福そのものに到達することはできないのではないか。

幸福とは神にのみ許された活動で、人間に許される活動は幸福の模倣ではないか。
(神は永遠であるため、活動の停止がないから。)


それでもいい


そう受け入れる強さを持つ人物がどれほどいるだろうか。
人は得てして運命に抗いたがる。
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[ 2014/05/16 10:14 ] 幸福 | TB(0) | コメント(0)
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プロフィール

智葉 哲三(ちば てつぞう)

Author:智葉 哲三(ちば てつぞう)
自由、幸福な生を主題に哲学します。学生時代はアリストテレスの『ニコマコス倫理学』から幸福を考察した。都内でサラリーマンを始め転勤で新潟へ。まだ若手。日常の出来事なんかも書きます。
連絡はこちらへ tetsuzou.c@gmail.com
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