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哲学科卒のサラリーマンによる戯言~自由及び生の考察~

若手サラリーマンの日常。そして、哲学や思想。

時間の不思議

充実した時間が過ぎるのは早い。
怠惰な時間が過ぎるのは遅い。

しかし、未来からそのときを振り返るとき、事態は逆転する。
充実した時間を振り返るとき、こんなにも長かったのかと思う。
怠惰な時間を振り返るとき、こんなにも短かったのかと思う。

あっという間に過ぎた時間は長く、だらだらと過ごした時間は短い。


時間は常に一定の速度で進んでいる。
しかし、ぼくたちの体感する時間は毎回異なる。
もう5分、と感じれば、まだ5分とも感じる。

時間を図る単位は人間が恣意的に決めたものに過ぎない。
万人に共通した時間認識を持たせるために、秒、分といった単位を作り出した。
これらは速度を尺度にしている。



ぼくたちは、時間を長さではなく質で捉えているのだ。

経験をしたことはないが、走馬灯というのはその最たる例であろう。
一般的な時間にして一瞬だが、自分の過ごしてきた人生を質として捉えているからあらゆる記憶を蘇らせることができるのだ。

ぼくの生きる1秒と、君の生きる1秒。
速度という尺度では同じだが、質は全く異なる。
ぼくたちは、全く違う1秒を生きたのだ。



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[ 2014/05/19 21:27 ] 哲学 | TB(0) | コメント(0)

喋るという時間

自分が喋るということは、相手が喋る時間を奪うこと。
ただただ喋ればいい、と考えるのは極めて自分本位だ。

相手の話を聞くということは、自分の時間を相手にあげること。

だから、相手に自分のことを知ってもらいたい、と思ったら自分が話すのをこらえてみよう。

相手が質問をしてくるまでの辛抱だ。

相手が質問をしてくる、ということは、私の時間をあなたに差し上げます、ということ。

つまり、貴重な時間をあなたに差し上げてまで、あなたのことを知りたいのだ。

相手の時間を奪ってばかりでは理解は生まれない。
相手に時間を与えてもらって、ようやく理解が生まれる。

相手が質問をしてこないのなら、あなたが相手に質問をしてあげよう。
あなたから相手に時間を与えてみよう。


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[ 2014/05/19 21:06 ] 哲学 | TB(0) | コメント(0)

道具という戦友

道具はぼくたちの手伝いをしてくれる。
カバンは荷物を運ぶのを手伝ってくれる。
クツは歩くことを手伝ってくれる。
ちょっと大きくすると、車はぼくたちの移動を手伝ってくれる。

道具はぼくたちの手伝いをしてくれ、共に目的へと向かう。
いわば戦友のような存在だ。

道具を持ったぼく達は別々にあるわけではない。
道具を持ったぼく、という1つの共同体になるのだ。

長い道具を持てば、ぼくはより遠くのもを取れる。
強い道具を持てば、ぼくはより一層強くなれる。

道具はぼくたちと共同になる、つまり、道具は身体の延長なのである。
ぼくたちは自分の身体を大切にする。
だから、自分の身体を扱うのと同じように、道具も大切に扱おう。



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[ 2014/05/18 19:38 ] 日常 | TB(0) | コメント(0)

これは浮気か?

もし、ぼくが超絶なM男で女性から冷たくあしらわれることが大好きだとする。


そんなぼくが、冷たくあしらわれることを目的として、街中で女性に声をかけだす。
いわゆる、ナンパ、というやつだ。


当然、冷たくあしらわれ続ける。
ただ、当初の目的通りだからそれでいいのだ。


だが、物凄い物好きな女性がぼくを気に入ってくれたとする。
あれよあれよ、と二人で遊ぶことに。

ぼくは、冷たくあしらわれることが目的だったのだから、望んでいない状況だ。
しかし、声をかけた手前断ることができない。


これは、浮気に分類されるのか。


浮気になり得るだろう。

浮気をしたかどうか、は本人が決めることではない。
パートナーが決めることだ。

だから、パートナーがその状況を浮気と判断すれば浮気だ。

浮気の判断に、本人の意図は考慮されない。


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[ 2014/05/16 21:03 ] 人生 | TB(0) | コメント(0)

卑下と賞賛

人から卑下される行為を行うことは簡単である。
人から賞賛される行為を行うことは難しい。


人間は甘えた動物だから、他人にはすこぶる厳しいが、自分にはすこぶる甘い。
だから、賞賛される行為は難しい。

行為が卑下されるか、賞賛されるかは他人の判断によるものだ。
であるならば、卑下と賞賛とは、否定は簡単で肯定は難しい、と同義ではないか?
他人にはすこぶる厳しいが、自分にはすこぶる甘いのだ。


怠け者である他人は卑下するが、怠け者である自分は卑下しない。
働き者である他人は賞賛しないが、働き者である自分は賞賛する。

こういうわけだから、賞賛される人物というのは中々いない。
他人にはすこぶる厳しいが、自分にはすこぶる甘い人間が、
それでも賞賛すべきだ、と思う人だけが世間からの賞賛を得ることができる。


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[ 2014/05/16 10:27 ] 戯言・メモ | TB(0) | コメント(0)

世界は残酷である

世界は幸福で溢れている。

同時に、幸福を阻害する出来事で溢れている。

争い、裏切り、不慮の事故。


幸福とは状態ではなく活動である。
例えば、幸福を感じている人がずっと眠った状態であるならば、その人を幸福とは呼ばないだろう。
幸福であった人、とは呼ぶかもしれないが。
(幸福であった。虚しい響きである。過去形はどうにも虚しさを孕むように思える。)

幸福である人は例外なく活動をしている人である。

そして、活動によって衝突が起こることは避けられない。
犬も歩けば棒に当たる、ではないが、ある活動とある活動は必ず衝突するのだ。

とはいえ、その衝突それ自体が悪いのではない。
若い男女の衝突は、恋愛に発展するであろうし、野心溢れる起業家の衝突は新たな事業を生む。
この先の彼らの将来を予測することはできないが、願わくば幸福へと辿りついてもらいたいものだ。

衝突によって他者と共に幸福へと至る入口をくぐることになるのだ。
しかし、それは同時に不幸への入口でもある。

くぐった時点ではどちらに進むかは分からない。

衝突は出会ったときにだけ起こるわけではない。
それぞれが活動をする限り、何度でも発生する。

ときに、その衝突は幸福へと進み、ときに、その衝突は不幸へと進む。
そして、最終的に幸福、又は、不幸に到達する。



だろうか?



不幸に到達することは簡単である。
劇的な決別が実現すれば、それだけで不幸と呼べるだろう。

しかし、幸福はどうだろう。
どこにいけば、幸福が実現したと言えるのだろうか?
いかに幸福な状態が続いても、いずれは別れがやって来る。
避けようのない、死別という別れが。

人は死ぬと活動が停止する。
つまり、幸福という活動をすることができなくなる。

いかに幸福と見えても、最終的には活動停止が待っている。


われわれは、活動する限りにおいて、幸福へ至る道を歩くことはできる。
しかし、幸福そのものに到達することはできないのではないか。

幸福とは神にのみ許された活動で、人間に許される活動は幸福の模倣ではないか。
(神は永遠であるため、活動の停止がないから。)


それでもいい


そう受け入れる強さを持つ人物がどれほどいるだろうか。
人は得てして運命に抗いたがる。


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[ 2014/05/16 10:14 ] 幸福 | TB(0) | コメント(0)

二つの世界

ぼくは視力が低い。

その視力を補うために眼鏡というものを常に装備している。

この眼鏡を装備することで、視力がいわゆる常人程度になる。

裸眼での視力は、0.05とかそんなもん。

だから、眼鏡がなくては世界の輪郭がぼやける。

モヤがかかって見える。

眼鏡を装備することで、このモヤを取り払い、世界の輪郭がはっきりする。


だが待てよ。

ぼくの見ている世界はどちらが本物なのだろうか。

はやり自力で見る輪郭のぼやけた世界だろうか?
それとも、常人と同等に見える眼鏡を装備した、輪郭のはっきりした世界だろうか?


視力は遺伝だとか、生活習慣によって変わるだとか言われている。
しかし、今の自分の視力というのは、自分が世界をそう見たいという思いの反映と考えられはしないだろうか。

ぼくは心の奥底では、この世界を輪郭のぼやけた世界として見たい、と願っているのかもしれない。
その願いがかない、裸眼で見る世界はぼやけているということだ。

だとするならば、ぼくが良かれ、と装備している眼鏡という代物は、せっかくかなったぼくの夢を台無しにしていることになる。

眼鏡を装備しなくては、ろくに歩けないし、生活に支障をきたす。
それは、世間一般に合わせようとしているから生じる問題に過ぎないのかもしれない。

純粋にぼく個人の理想を追い求めると、この視力の悪さはぼくが望んだ結果なのかもしれない。

一人家にいるときは眼鏡を外してみようか。
狭い世界ではあるが、僕の望んだ世界が垣間見えるかもしれない。


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[ 2014/05/14 22:33 ] 小説 | TB(0) | コメント(0)

パラレルワールド

絶対者によって定められた運命というものがあるのだろうか。

もしあるのなら、パラレルワールドという世界は存在しないだろう。
なぜなら、絶対者の定めた運命によって全てが決定されているから。
誕生から滅亡まで、1つの道ができあがっているから。

絶対者によって定められた運命の下ではわたしたちに選択の余地はない。
選択している、という錯覚はあるだろうが、それはあらかじめ決められたことなのだ。
だから、パラレルワールドが誕生することはない。


しかし、絶対者の定めた運命がないとしたら。
世界は私たちの自由意思によって営まれているとしたら。
パラレルワールドは存在し得るだろう。

わたしが今選択しなかった世界、過去に選択しなかった世界、未来に選択しないだろう世界。
そのような世界の可能性が多分にあるから。

パラレルワールドとは、わたしたちによって選択されない世界なのだ。
選択する余地がわたしたちに与えられている世界ではパラレルワールドが存在し得るのだ。

今わたしが生きているこの世界は、どちらに分類されるのだろう。
後者であって欲しいものだ。



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[ 2014/05/14 00:40 ] 戯言・メモ | TB(0) | コメント(2)

善と見えるもの、悪と見えるもの

世界には、善と呼ばれるものと悪と呼ばれるものとがある。

世界を全知全能なる神が造ったとしたら、なぜ悪が存在しているのか。


その理由は、次の二つが考えられる。


1 神は悪を容認している
2 人間にとって悪と見えるものは神にとっては善である


我々が悪と呼んでいるものは、本当に悪なのだろうか?





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[ 2014/05/13 08:12 ] 哲学 | TB(0) | コメント(0)

なぜ争いが起こるか

意見が対立する。
腹が立つ。
荒れ狂う感情を抑えられない。

その荒れた感情を相手にぶつける。

受け取った相手も感情を抑えられない。

こうして争いが生まれる。


自分にとって受け入れ難い事実に反発し続けるから争いが生じるのだ。

受け入れ難いことを受け入れることは難しい。

許すことは難しい。


争うことと、助け合うこと、どちらがより人間的か。
感情をむき出しで相手と争うことが人間的か?
共に歩み寄り共存していくことが人間的か?

人間は社会的動物である。

人間は協力しなれば弱い。
協力することは人間の本性とも言えるだろう。


争いは許すことができないから生じる。
争いは歩み寄ることができないから生じる。


相手を許すことは難し。
だから、世の中から争いが絶えない。

人間は、まだ人間的な世界を作れていないのかもしれない。
人間的な世の中を築くため争いは根絶せねばなるまい。



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[ 2014/05/13 00:43 ] 戯言・メモ | TB(0) | コメント(0)

否定と肯定 許さないと許す

否定は簡単で肯定は難しい。
否定は、自分の肌に合わないものを拒絶するだけだから。
肯定は、自分の肌に合わないものも受け入れなくてはならないから。

肯定する人は否定する人よりも強い。
難しことをやっているのだから。

肯定する人は、自分の範囲外のものを受け入れるため成長する。
否定する人は、受け入れないから停滞する。


これは、許さないと許すでも同様だ。

許さないことは簡単で許すことは難しい。
感情に根付くことがあるから、余計に難しいかもしれない。

許さないことは簡単だ。
感情の赴くままに振る舞えば良いのだから。

許すことは難しい。
感情を抑え、出来事を受け入れなくてはならないのだから。

許す人は、許さない人よりも強い。
そして、許すことができる人は肯定が出来る人だ。

自分の怒りに触れたものであっても、受け入れて肯定することができるのだから。



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[ 2014/05/12 20:35 ] 戯言・メモ | TB(0) | コメント(0)

ツイキャス iPhoneのアプリをダウンロード

今更ではございますが、ツイキャスのiPhoneアプリをダウンロードしました。

使い方を読んだり、ちょっといじったりしてみましたが、こんなに簡単に配信ができるんですね。


まだ配信はしていませんが…
配信するにも何をしようか。
いきなり雑談でいいですかね。

配信する日が来るか来ないか。

とりあえず、ぼくにも配信環境が整いました(`・ω・´)


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[ 2014/05/11 09:30 ] 戯言・メモ | TB(0) | コメント(0)

他者を否定するな

他者を否定している限り、それ以上の成長は見込めないと思う。

否定とは取り入れないこと、と言い換えてもいいだろう。

他者を取り入れない、つまり、自分だけで成長をしようというものだ。
それこそ、自分の枠を超えることができない。


他者のおこないで、否定したくなることもあるだろう。
かような場合は、一度冷静に他者のおこないを見てみよう。
学ぶべきものは潜んでいるはずだ。


真実は様々な虚偽に隠れている。

一見くだらない、と思えた他者のおこないに、自分の成長を大きく助ける何かが含まれていることもあるだろう。
それを見逃すことは非常に勿体無い。

自分の肌に合わないおこないも、一度肯定してみてはいかがだろうか。


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[ 2014/05/10 09:44 ] 戯言・メモ | TB(0) | コメント(0)

紙の本と電子書籍との比較

ぼくはKindleを愛用している。

Kindleを買うくらいだから、本もそれなりに読む。

従来の紙の本と、電子書籍、それぞれの利点・欠点について述べていく。

■紙の本の利点
これはきままに読みたい箇所から読み始めることができるのが最大の利点であろう。
参考書等、随時様々なページに移動したい時にも有用だ。
また、読み慣れている本なら、「この辺りに読みたい内容がある」という勘も働くようになる。

読む順序を規定されない、と言ってもよいだろう。

■紙の本の欠点
場所を取ってしまうことだ。
場所を取る、ということは保管する際の場所に限られない。
例えば、本を持ち運ぶとき、カバンのかなりの部分を本が占めることになるだろう。

本を読むときもそうだ。
本を広げるスペースが必要なのだ。

■電子書籍の利点
場所を取らないこと。
これは、紙の本の欠点の逆となる。
保管にしても、例えばKindleの様な、媒体1つあればよい。
もちろん、持ち運ぶにも媒体1つあればよい。
さらに、読む際も媒体の大きさを確保できればよいのだ。
満員電車の中で読む際には、圧倒的に電子書籍に軍配が上がる。

■電子書籍の欠点
ページ移動がうまくいかないこと。
できないことはないのだが、中々難しい。
章移動をするか、ページを指定して移動することになる。

紙の本のように、「だいたいこの辺」という勘が全く効かない。



■最後に
それぞれ、読書の方法によって向き不向きがある。

紙の本は、いわゆる勉強をする際にはもってこいである。
専門書、参考書は紙の本で読むべきであろう。
自分の好きなタイミングで、別のページに移れる利点を最大限に生かすことができる。

教科書をタブレット化、つまり、電子書籍化する案がある。
複数の教科書を用意することなく、スマートに学ぶことができよく思える。
しかし、紙の本の持つ流動性を担保するもう1声が欲しいところ。

また、気分を高めるために読む本、適当に開いたところから読み始めるような本、も紙の本がよい。
紙の本の持つ流動性を大いに生かせるから。

一方の電子書籍は、小説やエッセーを読むのに適している。
基本的に、前から順に読みページ移動を行わない類いの本に向いている。
場所を取らないのだから、移動中のスキマ時間にもサッと読むことができる。

また、一度しか読まないだろう、と思われる本も電子書籍で読むことをお勧めする。
どうせ一度しか読まないのなら、無駄なスペースを使いたくないからだ。


家で腰を据えて読む場合・繰り返し読む場合は紙の本、外出先で気軽に読む場合・一度しか読まない場合は電子書籍。
現在の勢力図はこうである。


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[ 2014/05/01 07:30 ] | TB(0) | コメント(0)
プロフィール

智葉 哲三(ちば てつぞう)

Author:智葉 哲三(ちば てつぞう)
自由、幸福な生を主題に哲学します。学生時代はアリストテレスの『ニコマコス倫理学』から幸福を考察した。都内でサラリーマンを始め転勤で新潟へ。まだ若手。日常の出来事なんかも書きます。
連絡はこちらへ tetsuzou.c@gmail.com
★当ブログはリンクフリーです★

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