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哲学科卒のサラリーマンによる戯言~自由及び生の考察~

若手サラリーマンの日常。そして、哲学や思想。

狩猟解禁日

今日は何の日でしょうか?
そう、狩猟解禁日です。


モンスターハンター4発売ですね。
未だに買うかどうか迷っています。
(9月14日 AM8時現在)

予約してないので、欠品したらそれまでですが。


狩友になってくれる人いないかなぁ~(/ω・\)チラッ


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[ 2013/09/14 08:02 ] ゲーム | TB(0) | コメント(0)

言い訳としての自由

好き勝手やって責任は取らない。
周囲に迷惑ばかりかけている人。
こんな人は「自分自由だし」という支離滅裂な言い訳を言い放ってくる。

自由には責任が伴う。
それは、必ずしも相手に迷惑をかけるな、という命令調の責任ではない。

根底にあるのは、自由を守る、という責任である。

この責任なくしては、世の中すべからく無責任な人間で溢れかえることとなる。
そのような世界は滅亡へと突き進んでいる。

自分が自由であるためには、相手も自由でなければならない。
自分の自由も相手の自由も、同じ自由なのだから、先の責任を果たさなくてはならない。

冒頭の支離滅裂な言い訳をする人間がおこなっているのは自由ではない。
彼は欲望のまま突き動かされている。

欲望のまま動くのが良いか悪いかは別の問題であろう。
けれども、欲望のまま動くのは自由ではない。


自由とは、数ある選択肢のから一つを選び取ることである。
これに対して、欲望による行動は単なる「反応」にすぎない。
どちらも自分の望むことをしているようで、そこに至る道のりは全く異なる。


無思慮な自分の行動を自由になすりつけるのはやめよう。
欲望のまま動いたのなら、素直にそれを認めよう。


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[ 2013/09/12 20:30 ] 自由 | TB(0) | コメント(0)

やりがいのある仕事

自分にとってやりがいのある仕事

これを会社から与えてもらおうと望むことがあるようだが、いささか疑問である。
会社の第一目標は「利益の最大化」なのだから、そこで働く人の「やりがい」までは面倒みてくれない。
こう考えるのは自然だと思うのだがどうだろう。


会社からやりがいのある仕事を与えてもらおう、などと考えているのは極めて自分本位であり、なおかつ受動的だ。
会社の本来の目的を忘れている。
組織の一員なのだから、意見を言うことを許されている、というのも舞い上がった妄想だ。
所詮は、雇われの身なのだから。


自由なことをやらせてくれる会社がいい、というのも同じくらい自分本位である。
たしかに、自由なことをやらせてくれる会社はある。
しかし、それは会社の決めた範囲内での自由なのだ。
それをはみ出すことは許されないし、雇われの身である以上受け入れねばならぬ事実だ。


さて、少し話がそれたので元に戻そう。
会社からやりがいのある仕事を与えてもらおう、などをいうのは極めて自分本位なことだ。
「やりがい」というのは、仕事に限らず自分で見つけ出すものだ。

「やりがい」のある趣味を他人から与えられましたか?
自分で探したでしょう。

「やりがい」のある人生設計を他人から与えられましたか?
自分で探しているでしょう。


なぜ仕事になった途端、「やりがい」を会社が恵んでくれるのか。
一度冷静になるべきだ。

やりがいのある仕事にありつくには、次の2つの方法しかない。
① 与えられた仕事にやりがいを見つけ出す。
② 自分でやりがいのある仕事を見つけ、それを実践すること。
   雇われ・独立は問わない。


会社に所属して仕事をしている限りは、ほとんど①の選択肢しかないだろう。
自分の担当した仕事からむりやりにでも「やりがい」を見つける努力が必要だ。
①は与えられてばかりで、非常に受動的であり、ただの我慢大会のように見える。
しかし、他人からこちらの都合お構いなしに仕事を任されるため、自分が予想だにしていなかった仕事と出会えるチャンスがある。
世間では、雇われの身なんて、社畜なんて、というが修行の場としては会社は最適と考える。
おまけに、定期的にお金をくれる。
ま、契約をしたのだから当然のことだが。
雇われの身となり会社に尽くすことは「自分探しの旅」という謎な理由をつけて世界中を無意味に飛び回るより、よほど有意義だと考える。


②は本当に自分のやりたい仕事だけが可能である。
もちろん、自分を売り込んで雇われの身となればこの限りではないが。
起業、独立をした際には、自分の好きな仕事を思う存分することができる。
当然、したくない雑務も増えるが。

四六時中やりがいのある仕事に打ち込めるのだから、本来的な仕事のあり方は②である。
しかし、現実にはある組織に所属して仕事をしている人が大半である。
(かく言うわたしも組織の一員である。よくもまあ、偉そうなことを言っているもんだ)
それは、人間は複数で協力することによって、一人では成し遂げられないことを行うことができるからだ。
独立している人は、それら組織の隙間を埋めるような働きをする。


本来的な仕事は②である。
したがって、独立するにせよ、組織に属するにせよ、「やりがい」は事前に見つけるべきだ。
まだ見つかっていないのなら、目前の仕事から無理やりにでも「やりがい」を見出す。
そして、自分を売り込んでいく。

自分が何をしたいのか、は早急に見つけ出すべきだ。


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[ 2013/09/11 20:51 ] 人生 | TB(0) | コメント(0)

自殺の是非

日本では自殺者が多いことが問題になっている。
近年は毎年約3万の方が自らの命を絶った。
そこに至る想いは様々であっただろう。

日本はこの自殺を問題視し、数を減らそうとしている。
人口構造がいびつになり、働く世代が減少している日本にとって、若者世代の減少というのは確かに痛手だろう。
と考える方はまあ、少数派だろう。
大多数は、なぜ自ら命を絶ったのか。他に道があっただろうに。という感想を抱くのではなかろうか。

時には自ら命を絶った者の弱さを責め、時には命を立つ環境を作った周りを責める。


なぜ自殺をしてはいけないのか。
自分の命なのだから、好きに使っていいではないか。
誰が悲しもうが私の人生なのだから。
生まれるタイミングは選べない。
ならば死ぬタイミングは選ばせてくれ、と。
自殺は自由だ!


ダメなのだ。
自殺はダメなのだ。
自殺を選択することは自由ではない。

自由の大原則は、「私がしていいことは、あなたもしていい」である。

つまり、私がやることは、他の皆もやっていいのだ。
世間の常識と照らし合わせても、そう大きく外れてはいないと思う。

この大原則のために、ぼくたちは自殺を許されない。

自殺とは、自分を殺すことである。
そして、自殺の容認は他殺を許容することになる。
その流れは下記の通りだ。

自殺とは言い換えれば
「私は私を殺していい」

私がしていいことは、あなたもしていいのだから、
「あなたは私を殺していい」

あなたが私を殺してもいいのなら、
「私はあなたを殺してもいい」
他殺の容認である。


自殺の否定は、人間的生活を守るために必要不可欠な約束なのだ。
自殺を容認する限り、他殺をも容認しているのだから。
集団なしには生きていけない人間が、集団を信じることができなくなる。

自殺の容認は社会の崩壊に直結する。
人間が社会的動物である以上、許されない状況だ。

単独では生きていけない弱い動物である。
単独で生きていくことになれば、人類が滅びるのにそう時間はかからないだろう。


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[ 2013/09/09 20:13 ] 人生 | TB(0) | コメント(2)

書評 『ネットがつながらなかったので仕方なく本を1000冊読んで考えた』

ホリエモンの新作『ネットがつながらなかったので仕方なく本を1000冊読んで考えた』を読みました。
獄中でホリエモンが読んだ本から、役に立った本が紹介されています。

ホリエモンから何かを学ぼう、と思うなら本書は適していないと思います。
他の著作を読んだほうが良いでしょう。

本書は、ホリエモンが2年間で読んだ本の記録と考えるのが適切です。
42冊を紹介しているので、それぞれの本についての深い考察はありません。
それでも、ホリエモンがどう感じ、どのようなことを考えたかは分かります。

ホリエモンの感動ポイントも分かり、どのようなタイミングで涙するのかも覗くことができます。
ホリエモンのことを、血も涙もない、人間離れした存在と思っている方は読んでみるといいかも。
彼の人間らしい一面を垣間見ることができます。


どんな本を読んでも、ビジネスと結びつける。
ホリエモンらしいですね。
どんなものからもビジネスのアイデアを得ることができる。
いくつかホリエモンの具体案が紹介されてますので、考え方のヒントを得ることができるでしょう。


巻末に書籍紹介もあります。
今後の読書生活の参考にもなる本です。








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[ 2013/09/08 23:14 ] | TB(0) | コメント(0)

何よりも残酷なもの

死とは、この世との決別である。
二度と戻ることはできず、この世に触れることもできない。
死によって、われわれはこの世にとって、よそ者になってしまう。

果たして人は死ぬのか?

精神が生きている限り、人間は死なない。
身体的な死は人間の死ではない。
精神は不滅であるため、肉体が滅んだ後もわれわれは生き続ける。

上記のような話もあるが、受け入れ難い。

精神と身体、二つで一人の人間だとしよう。
構成要素の一つである身体が消滅する。
半分の精神は生きているが、精神はそれ単体では活動できない。
少なくとも、われわれの住む現世では。
身体は消滅し、精神は機能を停止する。
この状況は、まさに死ではないのか。

われわれの身体は、精神にとっての入れ物にすぎない。
だから、身体が死んだ後、精神は次の身体を探しそこを住処とする。
精神が不滅であるため、別の入れ物を手に入れることで、われわれは生き続けることができる。

これを私と呼ぶことができるだろうか?

もはや別人である。
精神にとっては、入れ物かもしれないが、身体にとっては唯一無二の私なのだ。

ある精神とある身体との合体、これは一度しか行うことができない。
だからこそ、われわれ人間はそれぞれが一度きりの存在なのだ。
一度きりの存在である身体が死んだとき、私も死ぬ。


自分の死を経験することはできない。
だから、死は常に他人のものであり、私の死はないのだ、という不思議な主張がある。

ふざけないでいただきたい。
私の死は紛れもなく私にとっての死だ。
死は常に死ぬ本人、当事者の問題だ。
生きている第三者はその死を傍観することしかできない。

私の死を経験することはできないとしても、私が死んだという事実を覆すことは不可能だ。
1は数のうちに入らないかもしれないが、1という事実は疑い無く起きている。
同様に、私の死を経験できなかったとしても、私の死という事実は起こっている。

この世から私が消えてなくなる。
この壮絶な事実にフタをするには、私の死はない、というのはいい考えだ。
だが、そのように逃げたところで、私が死ぬという事実は変わらない。


来世でまた・・・というのもよく聞く。
来世に備えて現世を生きている、というものだ。

来世があるのなら、そこに行ってから身の振り方を考える。
焦らなくてもいずれたどり着くのだから。
それに、来世での処世術を私は知らない。
気を揉んだところで、それこそ徒労というものだ。

来世がわれわれを待っているとして、現世を十分に生きることのできない人間が、どうして来世でうまくやっていけようか。
まずは、現世を十分に生き抜くことを考えよう。

もっとも、来世があるか・ないか、は問題ではない。
この世から消えてなくなることが問題なのだ。



われわれは現世にいる間は、現世しか知ることができない。
ならば、現世に可能な限りしがみつこうではないか。
醜くも美しい現世に。
生きていることは辛いかもしれない。
しかし、死して全ての可能性を断ち切ることもなかろう。




死を受け入れる必要はない。
むしろ、死ぬ瞬間まで死を拒み続けよう。

私は死にたくない。


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[ 2013/09/06 21:59 ] 人生 | TB(0) | コメント(0)

バラエティ番組という教材

よくバラエティ番組は批判される。
くだらない番組だと、学ぶものがないと。

ぼくはそうは思わない。

くだらないバラエティ番組があるのはたしかだ。
(製作者のみなさんごめんなさい)

でも、バラエティ番組から学べることだってある。


例えば、バラエティ番組を見ることで、世間一般の会話のツボをある程度おさえることができる。
どのようなキャラクターがウケるのか、どのような話題が受ウケるのか、これを知ることは自分の生活でも役に立つはずだ。

特に有用なのは、タレントの話方はとても参考になる、ということだ。
タレントの話で笑えるのは、そのネタが面白いからだけではない。
話す道筋が整っているから、話し方が魅力的だから笑えるのだ。

もちろん、話すことのプロであるタレントと同レベルになることは難しい。
しかし、タレントたちの話の進め方、話方を真似てみることは容易であろう。
それを自分なりに取り入れることで、自身の会話力の成長を期待することができる。

話すという行為は人間のコミュニケーションの中でも大部分を占めるものだ。
話すということをしないと、基本的には相手に自分の意思を伝えることはできない。

そのコミュニケーションの根幹を、笑いながら学べることができる。
バラエティ番組とは、非常に有用な教材なのである。


普段からバラエティ番組を見ている人は、自分の好みではない番組も見てみると良いだろう。
別の話方のヒントを見つけることができるはずだ。

バラエティ番組を見下して、全く見たことがない人は、数分でもいいから見てみると良いだろう。
教材、という観点を取り入れると今までとは違った見方ができるはずだ。

嫌になればテレビのコンセントを抜いてしまえばいいだけなのだから、たいした損失もなければ、名誉を汚すこともない。

ぼくは「これは絶対に見るぞ」と決めているバラエティ番組はない。
しかし、1日のうち10分程はバラエティ番組を見る時間に当てている。

家事をしながら、バラエティ番組を見る。
そこで、会話力の強化を狙う。

バラエティ番組も捨てたもんじゃないだろう。
ぼくは、これからもバラエティ番組の繁栄に期待する。


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[ 2013/09/05 22:21 ] 日常 | TB(0) | コメント(0)

不思議空間 満員電車

会社のお偉いさんには、基本的には無礼のないように振る舞う。
自社であれ、取引先であれそうだろう。
世の中の大半の方はそうだと思う。
権力社会ですしね。



満員電車ではこんな人をよく見る。
うっとおしいなぁ、という顔を向ける人。
容赦無く押し込む人。

無礼極まる行為である。
これは、相手が誰だか分からないからできるのだ。
ぼくが今こうして押しつぶしている人は、どこかの会社の取締役かもしれない。
出会う場所が違ったら、ぼくの態度も変わっていたはずだ。

満員電車、そこは権力による区別のない空間。
つまり、平等な空間。
満員電車には、平等な社会を実現するヒントがあるのではないだろうか?

ただ、今のぼくには、これしか思いつかないのが悔しい。

互いの匿名性

しかし、これが答えなのかもしれない。
匿名の中には権力は存在しないのだから。

とはいえ、匿名を基盤とした平等だなんて、とても悲しい。



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[ 2013/09/04 09:27 ] 日常 | TB(0) | コメント(0)

マナーとは流動的だ。マナー教に陥るな。

マナーを守る。
これで一般的な人間関係を維持することはできる。

だが、マナーとは流動的なものである。
マナーを尊重することは多いに結構だが、絶対視してはならない。
よりふさわしいマナーが現れたら、そちらに乗り移れるよう柔軟な気構えが必要だ。


マナーを前提にしていると、決まりきったこと、同じようなことばかりになる。
新しいものを、より適切なものを求める場合には、マナーは邪魔ですらある。
マナーを押し付けないことも、またマナーであろう。

マナーは画一的なものではない。
接する相手によって変わるものだ。

先生に対するマナーと友人に対するマナーとは別のものだ。
マナーは必要に応じて変える必要がある。

人と人との間柄が変わればマナーも変わる。
人と世間との接し方が変われば、一般マナーも変わる。

マナーは尊重すべきだが、信仰してはならない。



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[ 2013/09/03 23:52 ] 戯言・メモ | TB(0) | コメント(0)

【書評】 『傭兵ピエール』

舞台はフランス。
ジャンヌ・ダルクと傭兵隊とのお話。

乱暴な傭兵だが、根は善良な人間。
ジャンヌ・ダルクと過ごすことによって、粗野な傭兵隊が小さな村人と共存するまでに至る。

作中では、戦争シーンあり、裏切りシーンあり、潜伏シーンあり、愛しあうシーンあり、と盛りだくさん。
中でも印象的なのは、裏切りシーン。
仲間内の裏切りも敵中での裏切りも、どちらも手に汗にぎる名場面。

裏切り、とくれば定番ですが、腹黒神父様。
傭兵ピエールでの神父様は中々に非道な人。
真っ黒です!


お勧めの歴史ファンタジー作品。

   




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[ 2013/09/03 08:13 ] | TB(0) | コメント(0)

【書評】 『ノマドと社畜』を読んで

『ノマドと社畜』を読みました。
全体を通して、現在人気のノマド論に対して警鐘を鳴らしている本です。

現在日本では、ノマドとは会社に縛られている社畜と対をなすものであり、WEBの力を利用しとても儲かるもの、として語られている。
このような安易なノマド論に対して著者は疑問を抱いている。
この論では、ノマドとは個人で独立することである。
そのため、全てが個人の力量次第で評価される。
社畜のように、会社から毎月給料が支払われることはなく、当然残業代もない。

現在日本で出版されているノマド本や、ノマドに関するセミナーでは、どのパソコンがいいだの、どこのカフェで仕事ができるだの、表面的なことしか語られていない。
また、ノマドを推奨している人が広告業界の人や作家等、仕事のパイが少ない業界の人が多いが、実際ノマドとして食べていける職種はエンジニアやプログラマーといったものである、と指摘する。
さらに、前段のようなノマドの負の部分には一切触れない、ということも指摘している。
それで高額な教材をノマド志望者に売り込むことは、過去のフリーターの推奨に似ていると述べる。

ノマドというのは働き方の1つに過ぎない、これが著者の結論であろう。
フリーになることだけがノマドではないのだ。
本来、ノマドとは場所に縛られず自由に働くことを意味するのだから。
社畜でありながら、ノマド的に働くことだって可能なのだ。
現に、ノマドの本場イギリスでは、社畜でありながら、場所にとらわれない勤務ということが実現している。

なお、本書で指摘している重要な点がもう1つある。
それは、著者が契約について触れる部分である。
契約社会であるイギリスでは契約以外の仕事は行わない。
契約外の仕事は、自分の専門外であることが多く、成果物のパフォーマンスが落ちるからだ。

ところが、日本ではあれもやってこれもやって、と契約外の仕事をやらされることが当然である。
そもそも、契約という概念も薄いようだ。
本書ではあまり触れられていないが、今日本で問題となっている「ブラック企業」にも通ずるものがある。
契約外の仕事を押し付け、それを従業員が許容している社会。

この社会を打破し、契約をより強固なものにすることは日本にとって急務であろう。
契約にたいしての考えが改まり、それが浸透すれば「ブラック企業」というものを日本からなくすことができるのではないだろうか。
考えのない欧米化には反対だが、労働に関する契約について、日本は早急に欧米化を進めるべきだ。
またそれがノマドとして生きていくことを選択しやすい社会にも通ずるのだ。




kindle版



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[ 2013/09/02 01:33 ] | TB(0) | コメント(0)
プロフィール

智葉 哲三(ちば てつぞう)

Author:智葉 哲三(ちば てつぞう)
自由、幸福な生を主題に哲学します。学生時代はアリストテレスの『ニコマコス倫理学』から幸福を考察した。都内でサラリーマンを始め転勤で新潟へ。まだ若手。日常の出来事なんかも書きます。
連絡はこちらへ tetsuzou.c@gmail.com
★当ブログはリンクフリーです★

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