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哲学科卒のサラリーマンによる戯言~自由及び生の考察~

若手サラリーマンの日常。そして、哲学や思想。

タレントからの卒業

宣伝をするにあたり、タレントから卒業しよう。
世に知らせたいのは、タレントではなく、商品なのだ。

宣伝にタレントが出てくれた方が売れる?
その様な商品には、あまり魅力がないのではないだろうか?
今一度考えてみよう。
真に素晴らしい商品は、それ自体で魅力的なはずだ。
まさか、タレントの違いで商品の差別化を図っているわけでもあるまいし。


宣伝には開発に魂をかけた、個人、チームが出演しようよ!


タレントからの卒業だ!


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[ 2013/06/29 09:03 ] 戯言・メモ | TB(0) | コメント(0)

敵に合わせる

自分を貫け。自分のやり方を信じろ。とよく耳にする。
自分の力を信じ、自分の戦い方を貫くことはとても素敵なことである。そしてカッコイイ。
対戦者が誰であれブレない自分。言葉の響きだけで泥酔してしまいそうだ。

だからといって、対戦者の研究を怠って良い、ということではない。
もちろん、怠るのは勝手だけれども。

対戦者の研究は何故必要か。
それは、自分らしさを最大限に出力するためである。
もちろん、対戦者のことなど露知らず、自分のご自慢の攻撃を浴びせ続けてもいい。
しかし、カッコ悪いではないか。

対戦者の研究とは、どのような状況で自分の力を最適にぶつけることができるか、これを探ることである。
相手の長所短所を探して、それに対する対策を練っている場合ではない。
いかに自分らしく戦うか、この一点のために対戦者の研究は必要なのだ。

最適な方法で自分らしさを突きつけることで、格上にも勝機を見いだせる。
逆転の一発を虎視眈々と狙うのだ。
その一発はセコイ一発ではない。
最も自分らしい一発なのだ。

敵に合わせる、とはこういうことだ。
決して無自己的なことではない。
積極的な自分らしさを貫く意思である。


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[ 2013/06/28 22:31 ] 戯言・メモ | TB(0) | コメント(0)

自然と私

僕たちは生かされている。
近くにいる人に、というのはもちろんだが、何より自然によって。

僕らは食事をする。
この行為は生き続ける上で避けることのできない行為だ。
食事は誰が提供してくれる?
料理人さん、もちろんである。

でも、自然が自分の命を犠牲にして僕らの命を延命してくれているんだ。
僕らはもっと自然に感謝しなくちゃならない。

僕らを生かすために、自然がどれほど自分の身を犠牲にしてくれていることか。
自然は僕らの命の恩人なんだよ。


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[ 2013/06/27 18:48 ] 自然 | TB(0) | コメント(0)

説明するということ

説明をする側の力量は当然必要。
それと同じくらいに説明を聞く側の力量も大事。


聞く側の力量とは、説明される事柄に対して知識がある、ということではなく、説明される事を始めて聞くが如く空白な頭を用意することである。

これから説明されることを余すことなく知っている、と思い込んでいる人は、説明者の説明を受け入れてくれない。
聞き手として二流なものである。


聞く側に、擬似的であれ、空白な頭を作り上げてもらう、これができる説明者は一流であろう。


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[ 2013/06/26 23:10 ] 戯言・メモ | TB(0) | コメント(0)

食事

物を壊すこと、一般的には良いこととされていない。
しかし、人間の生活には必要不可欠な要素である。
そう、信頼を築き上げることにおいてすら有用なのだ。


物を食する、という野蛮な行為を通じて人々は互いを信頼し合う。
支配者としてのつながり、暴力としてのつながり。



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[ 2013/06/24 20:29 ] 戯言・メモ | TB(0) | コメント(0)

一人が辛い

そう感じるときは一人でい続ければいい。
一人が辛い、と感じられなくなった時、他者との関係に左右されない強い人間となっている。

自分、という絶対的な地盤を固める。
何をするにおいても、土台となる最も重要なことだろう。


つまりは、確たる自分への自信がない限りは不安定な他者との関係性に翻弄される。


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[ 2013/06/07 23:09 ] 戯言・メモ | TB(0) | コメント(0)

他人に迷惑をかけなければ何をしても私の自由、ではない

他人に迷惑をかけなければ何をしようが私の自由。

何をしてもいい、という気ままなことを自由というのではない。

この場合、自由という単語は持ち出すべきではないだろう。


他人との関係で問題になるのは、選択肢である。

他人に迷惑をかけない選択肢は好きなだけ作って良い。
これが正しいのではなかろうか。

その用意した選択肢を選ぶ。
自由はここで登場する。


他人に迷惑をかける選択肢は排除すべきである。
自由の前に、他人に迷惑をかける思考を捨て去らねばならぬ。


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[ 2013/06/04 01:37 ] 自由 | TB(0) | コメント(0)
プロフィール

智葉 哲三(ちば てつぞう)

Author:智葉 哲三(ちば てつぞう)
自由、幸福な生を主題に哲学します。学生時代はアリストテレスの『ニコマコス倫理学』から幸福を考察した。都内でサラリーマンを始め転勤で新潟へ。まだ若手。日常の出来事なんかも書きます。
連絡はこちらへ tetsuzou.c@gmail.com
★当ブログはリンクフリーです★

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