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哲学科卒のサラリーマンによる戯言~自由及び生の考察~

若手サラリーマンの日常。そして、哲学や思想。

大晦日→謹賀新年 哲学の態度

大晦日で2017年も終わろうとしている。

律儀に紅白歌合戦を、もしくはガキ使を、見て年越しそばを食べる。そして初詣へと向かう。

時代は移り変われど変わらぬ日本の毎年行事。


何も変わらない、いつもと変わらない、今日と明日の関係なはずなのに。12月31日と1月1日だけは特別。
螺旋階段を上がるように、西暦がひとつ増える。

また新たな365日が始まる。
人間が自然を作為的に切り取った定義。

この365日で技術はまた大きく飛躍するだろう。
われわれ人間はその使用に追いついているだろうか?

哲学も倫理も止まっている。何百年も止まっている。善き生の探求とは何だったのか? 歴史を振り返ることが、過去の偉人にゴマをすることが、われわれ哲学徒のすべきことなのか?
難語を並べて奇人以外を排除することが哲学の本分なのか?

とうの昔にアリストテレスが言っている。
すべて実践してこそ意味が、価値があると。

技術はすべて実践。技術を扱う人間は未熟。
放っておけば、技術の甘美な誘惑に負ける。まるで、アダムのリンゴのように。

われわれは解明せねばならない。ニュートンのリンゴのように。

われわれは使用せねばならない。ジョブズのリンゴのように。


これからの技術に対する人間の態度を、われわれ哲学徒は規定していかねばならない。
そんな2018年にしていこう。


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[ 2017/12/31 20:41 ] 哲学 | TB(0) | コメント(0)

心霊写真や動画の謎

どうやら、世の中には霊感のある人とない人がいるらしい。

それぞれ、下記の通りである。
 ・霊感のある人 = 幽霊みたいなもの、霊界のものが見える
 ・霊感のない人 = 幽霊みたいなもの、霊界のものが見えない

当たり前のことを書いて申し訳ないと思う。


ところが、

心霊写真や動画はなぜか霊感の有無にかかわらず、みんなに見えている。


一体なぜ?


カメラやビデオカメラには人間と霊界とを媒介する能力が備わっているのか?

人間世界を映しているようで、実は・・・

霊界を映しているのか?


というか、人間界を映していて霊界のものが映りこむのは

人間界に霊界の何かが迷い込んできたからなのか、人間界と霊界とは同じ時空に存在しているからなのか。


それともやっぱり気のせいなのか・・・ 目の錯覚なのか・・・


人間界と霊界はおいとくとして、
なぜ霊感のない人が写真や動画なら霊界のものがみんなに見えるのか。


実は人間はみんな霊感を持っているのではないだろうか?
ただ、霊感がないと思っている人は注意力が足りないだけで、見えていることに気がついていないのではないか?
だって、写真や動画だと見えるんだから。

さて、書いているうちに怖くなってきたのでこの辺で。


多分、霊感はみんな持っている。
注意深く見ると・・・ 


なんてね。


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[ 2016/03/14 00:07 ] 哲学 | TB(0) | コメント(0)

時間感覚の変遷

子供の時の1年は長く感じ、大人になるにつれ1年が短く感じる。

それもそのはずで、5歳の子供にとって1年は自分の人生の5分の1だが、
30歳の大人にとって1年は自分の人生の30分の1なのだから。


同じ時間を過ごしているが、その感じる長さは人により異なる。

時間とは不思議なものだ。


平等に与えられているが、それを平等と感じることはできるだろうか。


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[ 2015/08/30 15:34 ] 哲学 | TB(0) | コメント(0)

標準的人間と人格破綻者

人格破綻者とは、まるでわれわれ一般人とは思考回路を異にする、奇異な存在として見られている。


しかし、どのような人間が人格破綻者であるか、明確な定義は無いように思える。

なんとなく、猟奇的な発言が多い、よく聞く話と違う反応をする。

こういった特徴が見られる人間を、なんとなく、人格破綻者と呼んでいるにすぎないのではないだろうか。



思うに、健常者の定義すら曖昧ではなかろうか。

健常者とはどのような人間か、例示してみよ、と言われて時間をかけても良いから、納得できる答えを用意できるだろうか?


健常者が定まらねば、異常者、人格破綻者は定まらないだろう。


標準がないのなら、すべては例外である。


健常者の定義がないのなら、われわれは皆、人格破綻者であろう。

もちろん、健常者でもあろう。


犯罪者が自身のことを健常者だと言い張るのはこういった理由からではないだろうか。


明確に定義された健常者がいないため、自分を健常者と呼ぶか、その反対と呼ぶか、は自分で決めることができるのではないだろうか。



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[ 2015/05/06 18:52 ] 哲学 | TB(0) | コメント(0)

哲学は無意味である

イデア論というものがある。
古代ギリシアのプラトンが唱えているものだ。
あるカテゴリーには、カテゴリー内の全てに共通するあるものがある、という考えである。

プラトンに言わせれば、この世界とは別に、「イデア界」なるものがある。
われわれ人間も生前にその「イデア界」を経験している。
だから、あるカテゴリーに共通点を見つけ出すことができている。
つまり、イデアを見て取れているのだ。

この話、ファンタジックである。
「哲学なんて意味がない」という人に追撃の一手を与えているようだ。

しかしである。
日常的に、「物事の本質を見よ」というフレーズを見聞きする。
これは、言葉を変えれば「イデアを見よ」ということだ。

物事の本質を探すにあたり、イデア論を知っている人と知っていない人とで、どれほどの差がでるだろか。

イデア論を知っていれば目前の1つの事象と同じカテゴリーに含まれる事象をいくつも並べる。
そして、そこから見つけ出した共通点を「本質」として見出すことができる。

イデア論を知らなくても、本質について考えることはできる。
だが思うに、その場合、目前の1つの事象だけを見て、その本質を探ろうとするのではなからろうか。
もちろん、イデア論を知らない人だって、同じカテゴリーの項目を集まるかもしれない。
しかしそれは、経験によるか、そう指示されたからであろう。

両者の導き出した答えは一致するかもしれない。
しかし、イデア論を知っている人間の方が、はるかに効率的にその答えまでたどり着くことができるだろう。


哲学はそれ自体では確かに無意味かもしれない。
イデア論をいくら詳細に知っていたところで、それ自体では何の役にも立たない。
しかし、哲学は実生活にいくらでも応用することができる。

考えていれば、科学技術にしても、それ自体では何の約にも立たない。
それを使う人間がいて、それを実生活に応用する人間がいて、初めて役に立つのだ。


哲学を学ぶことは無意味かもしれないが、無駄ではない。


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[ 2014/10/05 16:55 ] 哲学 | TB(0) | コメント(0)

「いただきます」に込められた意味

われわれが生きるには何かの死が必要だ。
生と死とは隣り合わせなのではなく、支えあっている。


食事をする前、「いただきます」という。
これには2つの意味がある。

1つは、食事を提供してくれた料理人、食材を提供してくれた農家の人々に対する感謝の気持ち。
人間に向けられたものだ。

もう1つは、その食材に向けた感謝の気持ちである。
われわれの生のために命を捧げてくれた食材に対する感謝である。

全ての食材は命あるものであった。
われわれが生きるために、その命を絶ったのだ。
弱肉強食の世界と言えばそれまでだが、生命維持のために食材となる生があったのだ。

生は死によって支えられている。
われわれにとっては身近な死ではないかもしれないが、われわれの生には数多の死が関係している。
われわれの生きている時間は、他の食材が生きたかった時間なのだ。


食材と贖罪とが同じ音なのは果たして偶然であろうか。
われわれは生きることで食材に対する罪滅ぼしを行っているのだろう。


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[ 2014/09/03 00:14 ] 哲学 | TB(0) | コメント(0)

善悪とは何か 一体何者なのか

善悪とは所詮人間が定めたもので
自分たちの都合に合わせて調子よく扱っているものに過ぎないのか。

自分たちを善とし敵対するものを悪とする。

こうすることで味方の士気を高めるために用いられるのか。

なぜ、善を実践しなくてはならないのか。
なぜ、悪を実践してはならないのか。

悪は他人に不利益を与えるから、社会生活が崩壊するから。
だから実践してはならない。

だが、社会生活が崩壊することが善だとしたら?
我々が善悪を履き違えて、全く逆に向かっていたとしたら?


今、善と思い込んでいるものが悪であったとしたら、ぼくには善を実践する勇気がない。
他人の利益を守ることでしか自分の生活を守ることができない、善という便利な盾に隠れることしかできない。

善悪とは何者なのか。
社会生活を正常に営むためのルールに過ぎないのか。
人々が自分の生活を投げ捨ててまで守るべきものなのか。

我々は善悪に翻弄されてはいないだろうか。


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[ 2014/08/19 19:33 ] 哲学 | TB(0) | コメント(0)

アイデアと弁証法

アイデアとは既存の何かAと何かBとを足し合わせて新しい、より良いものを作ることである。

ヘーゲルの弁証法に近いものを感じる。
正反合のように、AとBとは反するもの同士とは限らないが。

異なる二つが合わさり、より高いCへと昇華する。
この過程は同じもだ。

良いアイデアが思いつかないと考えあぐねている方は、
そのテーマのアンチテーゼについて考えてみたらどうだろう。

弁証法的に新たなアイデアを見つけることができるかもしれない。


ここからは完全なる戯言だが、ヘーゲル的弁証法の立場に立つのなら、
アイデアの行き着く先はこの世界の真理だろう。

アイデアを極めれば、世界の理を極めることができる。
なんて夢広がる話なのだろうか。


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[ 2014/08/04 21:51 ] 哲学 | TB(0) | コメント(0)

孤独

ライブハウスやクラブハウスでおとなしくしていると、
「楽しんでるの?」と問われる。

問われるまでもなく楽しんでいるにも関わらず。

どうやら、ライブハウスやクラブハウスではいわゆる「トランス状態」に陥っていないと楽しんでいるとみなされないようだ。


しかし、音楽を聞くという意味ではトランス状態に陥らない方が楽しめるだろう。
各楽器の奏でる音を、まるでクラシックでも聞くかのごとくに聞き入る。
ライブハウスやクラブハウスでこういった楽しみがあってもいいはずだ。

だが、それでは「ノリが悪い」と言われる。


まあ、クラシック音楽を楽しむのに、ライブハウスの騒がしさを持ち込まれてはたまったものではないので、
その場に適した楽しみ方というのがあるだろう。


さて、クラシック音楽を楽しむような楽しさ。
これは一般的に「個人的な楽しさ」と呼ばれるだろう。
「静かな楽しさ」と言い換えても良い。
一人優雅な気分に浸ることを目的としているのだから。

一方で、ライブハウスやクラブハウスの楽しみ方は「共有する楽しさ」と呼ばれるだろう。
「騒がしい楽しさ」と言い換えても良い。
参加者みんなで騒いで、楽しさを共有する、というわけだ。

一見すると、両者は両極の楽しみのようだ。
だが、全く同じ性質なものであろう。
楽しさを表す態度が異なるだけで、根本は同じと思える。

誰かが言っているが、「楽しさとは孤独なもの」なのである。

「静かな楽しさ」については合点がいくと思う。
なぜなら、基本的には一人で楽しむのだから、「孤独」という性質を受け入れやすい。
たしかに、複数人でクラシック音楽を楽しむこともあろうが、それぞれが自分の世界での音楽を楽しんでいる。

「騒がしい楽しさ」では、その場にいる皆で騒ぐため、一体感が生まれている。
だから、一人で楽しむ、孤独なものとは考えにくい。
しかし、これも孤独なものなのだ。

いわゆる「トランス状態」に陥るのが「騒がしい楽しさ」である。
「トランス状態」に陥っている人は、自分の世界に入り浸っている。
他者と何かを共有する余裕はない。
従って、「騒がし楽しさ」も根本では孤独なものなのである。


楽しさ、というものは一見他者と共有することができるように思える。
しかし、楽しみとは孤独なものなのである。
楽しんでいるまさにその瞬間、これは自分だけの世界なのだ。

楽しさを共有できると思えるのは、自分だけの孤独な楽しみを終えたあと、
思い出を共有するように、他者と触れ合うことができるからだ。


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[ 2014/06/17 20:07 ] 哲学 | TB(0) | コメント(0)

時間の不思議

充実した時間が過ぎるのは早い。
怠惰な時間が過ぎるのは遅い。

しかし、未来からそのときを振り返るとき、事態は逆転する。
充実した時間を振り返るとき、こんなにも長かったのかと思う。
怠惰な時間を振り返るとき、こんなにも短かったのかと思う。

あっという間に過ぎた時間は長く、だらだらと過ごした時間は短い。


時間は常に一定の速度で進んでいる。
しかし、ぼくたちの体感する時間は毎回異なる。
もう5分、と感じれば、まだ5分とも感じる。

時間を図る単位は人間が恣意的に決めたものに過ぎない。
万人に共通した時間認識を持たせるために、秒、分といった単位を作り出した。
これらは速度を尺度にしている。



ぼくたちは、時間を長さではなく質で捉えているのだ。

経験をしたことはないが、走馬灯というのはその最たる例であろう。
一般的な時間にして一瞬だが、自分の過ごしてきた人生を質として捉えているからあらゆる記憶を蘇らせることができるのだ。

ぼくの生きる1秒と、君の生きる1秒。
速度という尺度では同じだが、質は全く異なる。
ぼくたちは、全く違う1秒を生きたのだ。



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[ 2014/05/19 21:27 ] 哲学 | TB(0) | コメント(0)
プロフィール

智葉 哲三(ちば てつぞう)

Author:智葉 哲三(ちば てつぞう)
自由、幸福な生を主題に哲学します。学生時代はアリストテレスの『ニコマコス倫理学』から幸福を考察した。都内でサラリーマンを始め転勤で新潟へ。まだ若手。日常の出来事なんかも書きます。
連絡はこちらへ tetsuzou.c@gmail.com
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