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哲学科卒のサラリーマンによる戯言~自由及び生の考察~

若手サラリーマンの日常。そして、哲学や思想。

喋るという時間

自分が喋るということは、相手が喋る時間を奪うこと。
ただただ喋ればいい、と考えるのは極めて自分本位だ。

相手の話を聞くということは、自分の時間を相手にあげること。

だから、相手に自分のことを知ってもらいたい、と思ったら自分が話すのをこらえてみよう。

相手が質問をしてくるまでの辛抱だ。

相手が質問をしてくる、ということは、私の時間をあなたに差し上げます、ということ。

つまり、貴重な時間をあなたに差し上げてまで、あなたのことを知りたいのだ。

相手の時間を奪ってばかりでは理解は生まれない。
相手に時間を与えてもらって、ようやく理解が生まれる。

相手が質問をしてこないのなら、あなたが相手に質問をしてあげよう。
あなたから相手に時間を与えてみよう。


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[ 2014/05/19 21:06 ] 哲学 | TB(0) | コメント(0)

善と見えるもの、悪と見えるもの

世界には、善と呼ばれるものと悪と呼ばれるものとがある。

世界を全知全能なる神が造ったとしたら、なぜ悪が存在しているのか。


その理由は、次の二つが考えられる。


1 神は悪を容認している
2 人間にとって悪と見えるものは神にとっては善である


我々が悪と呼んでいるものは、本当に悪なのだろうか?





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[ 2014/05/13 08:12 ] 哲学 | TB(0) | コメント(0)

平等な世界

プラトンは著作『国家』の中で、子供は生まれたらただちに親元を離れ国家が預かるべきである、という旨の主張ある。

初めてこれを読んだとき、なんだこれは、と思った。
なぜなら、家族というものは認められていないからだ。
親も子供もお互いを知ることができない。
なんとも無味乾燥な国家であろう、と思った。


今でもこの考えがいいとは思えない。
ぼく自身、いずれは子供が欲しいし、子供とは一緒に年を重ねたい。
これがなぜか?という理由はぼくにもわからない。
でも、とにかく子供と年を重ねたい。


だからといって冒頭の、『国家』の主張を全く無視していいものだろうか。
平等な国家を築く上では、必要な考えのように思えてきた。

平等な国家を実現するには、家族というものは邪魔なのではないだろうか。
親の七光りという言葉があるように、先代の力が大きな影響力を及ぼすことがある。
日本だけで見ても、東京大学の入学生9割が親の年収900万以上、という事態が生じている。

もちろん、入試を突破した本人の努力が最も大きい。
だが、塾に通う、問題集を買う、入学後の学費を払う、という親からの援助がなくては成し得なかったことでもある。
もし、親の年収に関係なく全員が、等しく平等に塾通い、問題集を買えたら、今いる東京大学生の何人が東京大学生として残ることができるだろうか。


子供の進路に親の与える影響は大きい。
機会は平等に与えられているというが、実はそうでもない。
たしかに、塾に通う機会、入試を受ける機会は平等に与えられている。
だが、それを実行することができるのは、親がそこから発生する費用をまかなえる場合に限るのだ。
子供にとって、これが平等な機会、と言えるだろうか?

不平等であろう。


このような不平等をなくすために、国家が生まれたときから子供を預かる、ということは有効だ。
全員が国家の子として扱われるため、先代による不平等が発生しない。

これは国家にとっては望ましいことかもしれない。
だが、個人にとってこれは望ましいことと言えるのだろうか?

望ましいのだが、ぼくがこれを理解できる域にまで達していないだけなのだろうか?


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[ 2014/04/17 21:03 ] 哲学 | TB(0) | コメント(0)

世界の見え方

ぼくたちは同じ世界を生きている。
そして、同じ世界を見ている。

だが、同じ見方はできない。

日常的なことでは、体格の違いによって、世界の見方は変わる。

そして、自分の経験によっても見方は変わる。

ある人には、渋谷の輝きは眩しく見え、またある人には汚らしく見える。


ぼくたちは、同じ世界を見ているが、そこから見出す意味はそれぞれ異なる。

どんなに分かり合えた二人でも、世界の見方は微妙に違う。

分かり合えた人と見方が違ったからといって、あの人は変わってしまった、と結論づけてはならない。
分かり合った二人それぞれに世界があるのだから。


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[ 2014/04/17 20:32 ] 哲学 | TB(0) | コメント(0)

人間の解釈と矛盾

世の中に矛盾は付き物である。

果たして本当だろうか?

世の中では様々なものが存在し、活動している。
それぞれの事実は紛れもない事実であり、矛盾が入り込む余地はない。

しかし、冒頭の通り世の中に矛盾は付き物である。

なぜか?

それは、人間が世の中に解釈を加えるからである。

人間は認識したあらゆるものに解釈を加える。
そして、人間の解釈というのは各個人によって異なる。
だから、世の中に矛盾が生じているように見えるのだ。

もともと各個人が認識した事象は、それ自体での矛盾はありえない。
たとえば、そこにバラがある。

この事実に矛盾はない。
(そこに存在しているのは、本当にバラなのか?という問題は置いておこう)

そのバラを見て、ある人は美しいと言う。
また、ある人は刺々しく美しくないと言う。

各個人の解釈により同じバラに対して、美しいと美しくない、という矛盾が発生した。
バラそのものに矛盾は無いにも関わらず。


この解釈の違いから生じる矛盾をぼくたちは嘆くべきだろうか。
ぼくは、人間の特権として喜んで受け入れるべきだと考える。

人間以外の存在は、世の中をあるがままに認識している。
認識しているというよりも、ただ時の流れに従っているだけかもしれない。

ところが人間は、世の中に解釈を加えることができる。
これは、人間に与えられた特権なのだ。
用意された世の中を自分で意味付してよい、という特権なのだ。


人間は、ある事象を一つの角度からしか見ることができない。
それが解釈、意味付というものだ。

全方位的に見れたら矛盾は起きないだろう。
だが、それは神の領域だ。

ぼくたちが人間であることは変えることができない。
ならば、この人間の特権を思う存分楽しもうではないか。


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[ 2014/04/03 08:00 ] 哲学 | TB(0) | コメント(2)

感情と理性

人間は感情で生きている。
感情は自分本位のため、他者のことは考慮しない。
世の中が全て自分の思い通りにいくのなら、この感情だけで生きていて差し支えないだろう。


しかし、人間は他者との共存をしなくては、生きていくことはできない。
そのため、感情を暴走させないよう理性がコントロールをする。
世の中で理性、理論的ということが重宝されているのは、他者との共存を図る上で必須なことだからだ。

感情と理性とを言い換えれば、下記の通りと考える。
感情とは孤独である。理性とは協調である。

【感情について】
たしかに、「嬉しい」「悲しい」といった感情を共有することはできる。
同じ映画を見て、上記の感情を一定数の視聴者が感じている、といったことがその証左だ。
感情が高ぶる、情熱的な状況を共有することができるのも同様だ。

しかし、その感情の質、内容は人それぞれによって異なるはずだ。
感情も過去からの経験を踏まえるわけだから、その映画よりも大きな「悲しい」を経験した人はそうでない人よりも、「悲しい」の度合いが低いだろう。

感情は一見共有できるようだか、その実、根本では孤独なものなのだ。


【理性について】
一方の理性は、基本的には感情の暴走を防ぐ番人の役割を果たす。
なぜ、感情の暴走を防ぐ必要があるのか。

それは、他者との関係に悪影響を及ぼす可能性があるから、ひいては自分の生存に悪影響を及ぶす可能性があるから。
感情とは孤独であり、根本的なところでは他者に理解されない。
他者から感情的に訴えられて、あまりいい気がしないのは、これが理由であると考える。

理性では、そのような孤独な感情を野放図にせず、他者と共存ができるよう舵取りを行う。
理性的であることは、人間社会を円滑に生きていくために必要なものなのだ。

理性的に他者を説得する。
これも、争いを避け、共存を図ろうとするからこその行為である。
共存を図ることは、即ち、協調であろう。

【おわりに】
「最近の若い世代は、協調性はあるが、情熱が足りない」と言われる。

これは、「理性的ではあるが感情的ではない」と換言できよう。

人間は、理性的であることを求めているが、感情が不足しているようでは何か物足りないようだ。
やはり、人間らしさ、というのは感情の中に潜んでいるのだろう。


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[ 2014/03/02 12:24 ] 哲学 | TB(0) | コメント(0)

社会から隔離されている場所

社会の喧騒から逃れられる場所。
安らぎを得ることのできる場所。

それが、家、である。

逆の見方をすると、
最も個人的な場所
社会から最も隔離された場所


家にいる限り、生の情報は入ってこない。
全てが、何かしらのメディアを通しての情報だ。
(情報主体で見ると、生の情報を受け取る私という個人もメディアになり得るが、それは別の機会に)

家にいる時、その外がどのように変えられようと、私は気づくことがてきない。
家に入った時と家から出た時、私が足を踏み入れるのは、本当に同じ世界だろうか?

家からでる度に、非常に良く似た、別の世界を旅しているのかもしれない。
家では孤立しているため、真意は分からない。

思考実験はこの辺にしておき、、、

家とは安らぎの場である。
しかし一方で、とても孤独な場所でもあるのだ。


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[ 2013/11/18 08:52 ] 哲学 | TB(0) | コメント(0)

特別な日

今日はぼくにとっては、いつもと変わらぬ毎日。
平凡な毎日と変わらない日。

でも、誰かにとっては素敵な記念日。

きっと、毎日が誰かの記念日、特別な日。


結局、人間にとって大切なのは、自分にとって特別な日であること。

だから、誰かの特別な日でも、いつもと変わらぬ毎日とボヤくことができる。


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[ 2013/11/06 22:18 ] 哲学 | TB(0) | コメント(0)

哲学者失格

過去の哲学者にとても詳しい人がいる。
これみよ、とばかりに先人の言葉を借りてぼくに攻め入ってくる。

たしかに、過去の哲学に詳しくあることは有用だ。
それは、自分の哲学を肉付けする限りにおいてである。
偉人の名言を振りかざし、「わたしはこんなにも哲学に詳しいのだ!思い知ったか!」という態度を取る人物を哲学者と呼んで良いものか。

過去のことを事細かに学び、それに解釈を加えるのは歴史である。
しかし、哲学は歴史ではない。
哲学とは、自分の結論を用意することである。
過去についての知識が豊富なことと哲学とは無関係だ。


もちろん、哲学が歴史より優れている、というわけではない。
当然その逆も違う。
両者は比較すべきものではないのだ。
それぞれが、人間にとって重要なものである。

過去の哲学に詳しいだけの者は哲学者とは違う。
この者は哲学研究者だ。


過去の哲学を参照することは大いに結構。
重要なことは、そこから自分の結論へと到達することなのだから。

過去の名著を読んだ量が少ないからといって恐縮せずともよい。
「○○を読んでいないなんて、哲学者失格だ!」という批判には聞く耳を持つ必要なし。
その批判は哲学を誤解している。
哲学と哲学研究とは異なるのだ。
哲学とは、虎の威を借る狐になることではなかろう。

知識だけで判断するとは、哲学者失格である。
知識だけを振りかざしてくる者には、ソクラテスの鉄槌をお見舞いして差し上げようではないか。

哲学者は自分の結論を導く強さを持っている。
自分の思考で勝負をするのだ。
哲学者は安易に偉人の言葉を借り、虚勢を張ることはしない。


哲学者よ、強くあれ!


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[ 2013/08/31 19:01 ] 哲学 | TB(0) | コメント(2)

哲学とは 難しく考えなくとも良い

問題意識を持ち、その回答を探す。
そして自分の意見を明確にする。
これが哲学というものだ。


哲学というと、小難しく取っ付きにくいと思われている。
それは、なんやかんや難しいことを述べた人が有名になっているだけなのだ。

問題意識を持ち、自分の回答、主張を用意する。
これは多くの人が日々おこなっている。
哲学する対象は必ずしも世のため、人のためになることでなくとも良い。
テーマは悪でも良いのだ。

平易な言葉か難解な言葉か。
問題意識が具体的なものに向いているか、抽象的なものに向いているか。
この程度の違いはあるが、日々みんな哲学をおこなっている。

人類総哲学者なのだ!



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[ 2013/08/27 09:15 ] 哲学 | TB(0) | コメント(0)
プロフィール

智葉 哲三(ちば てつぞう)

Author:智葉 哲三(ちば てつぞう)
自由、幸福な生を主題に哲学します。学生時代はアリストテレスの『ニコマコス倫理学』から幸福を考察した。都内でサラリーマンを始め転勤で新潟へ。まだ若手。日常の出来事なんかも書きます。
連絡はこちらへ tetsuzou.c@gmail.com
★当ブログはリンクフリーです★

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