FC2ブログ

哲学科卒のサラリーマンによる戯言~自由及び生の考察~

若手サラリーマンの日常。そして、哲学や思想。

これは浮気か?

もし、ぼくが超絶なM男で女性から冷たくあしらわれることが大好きだとする。


そんなぼくが、冷たくあしらわれることを目的として、街中で女性に声をかけだす。
いわゆる、ナンパ、というやつだ。


当然、冷たくあしらわれ続ける。
ただ、当初の目的通りだからそれでいいのだ。


だが、物凄い物好きな女性がぼくを気に入ってくれたとする。
あれよあれよ、と二人で遊ぶことに。

ぼくは、冷たくあしらわれることが目的だったのだから、望んでいない状況だ。
しかし、声をかけた手前断ることができない。


これは、浮気に分類されるのか。


浮気になり得るだろう。

浮気をしたかどうか、は本人が決めることではない。
パートナーが決めることだ。

だから、パートナーがその状況を浮気と判断すれば浮気だ。

浮気の判断に、本人の意図は考慮されない。


このエントリーをはてなブックマークに追加

スポンサーサイト



スポンサーリンク
[ 2014/05/16 21:03 ] 人生 | TB(0) | コメント(0)

戦国無双4から学ぶ 夢への挑戦

戦国無双4のストーリーをある程度クリアした。
このゲーム勢力毎に異なるストーリーが用意されているのだが、一つ共通のテーマがある。

それは、幹と花、というテーマだ。


勢力の中心的な人物は「幹」と表されている。
死に急ぎ野郎たち(勇敢な家臣たち)は「花」と表されている。

幹がある限り、花は何度でも咲き誇る。
花は一度散ったら終わりではない。
だから、幹は花が咲き誇れるようしっかりしていないといけない。
このような趣旨の発言があった。

ここで言う咲き誇るとは、戦場で勇敢に討ち死にすることだ。
勇敢な武将は捨て駒、とも聞こえて支配者の理論が感じ取られる。

死に急ぎ野郎たちは、戦場で華々しく散ることを望んでいる。
それが当時の武士の美徳だったのだろう。



ここで、幹を自分、花を夢、と置き換えてみよう。

幹がある限り、花は何度でも咲き誇る。
花は一度散ったら終わりではない。
だから、幹は花が咲き誇れるようしっかりしていないといけない。

これらの言葉はとても明るい、前向きなものとなる。

自分がある限り、夢は何度でも達成することができる。
一度夢敗れても、自分がある限り、再度夢を育むことができる。

ぼくたち人間は生きている限り夢を育むことができる。

何度失敗しても良いのだ。
自分という確たる幹が存在している限りは。



このエントリーをはてなブックマークに追加

スポンサーリンク
[ 2014/03/31 19:48 ] 人生 | TB(0) | コメント(0)

転職支援サイトに登録して感じた問題点

大学を卒業し、新卒で今の会社に入社した。
転職の経験はないので、今の会社のことしか知らない。


「視野を広く持て!」

と言いながら自分の会社のことしか分かっていない大人になりたくないので、他社について知ろうと思い立った。
そこで、某転職支援サイトに登録をしたのが去年(2013年)の暮れ。

サイトのシステムは、新卒の就職支援サイトと大差ない。
様々な企業から、一方的に会社案内、求める人材像が送られてくる。
どのメッセージも自社は素晴らしい、としか書いていない。
正直、どの企業が素晴らしいのか全く分からない。

ぼくが感じ取れたのは、こんなもんだ。
「あ、この企業結構給料くれるんだな。業績いいのかな。」


募集する企業も次のように書いてくれればいいのに、と痛感した。
「(自社の課題、問題点を明らかにした上で)この問題点を解決出来る人を募集しています」
こう書いてくれた方が、お互いのためだと思う。
面接をする企業にも、面接を受ける求職者も時間の節約になるし。

スキは全くない、素晴らしい企業を演じたいのだろうか?

転職支援サイトを通じて最も感じたこと、それは次のことだ。
「人材支援を行う企業は顧客目線が不足しているのではなかろうか」
本当に求人を出す企業のことを考えたら、その企業の問題点を明記させるべきだろう。
問題点がない会社ならば、何をするためにこの求人を出しているかを明確にさせるべきだ。
そうすることで、求職者も適切な企業を選択することができ、求人を出した企業の負担も軽減されるのだから。

ぼくは人材支援業界の人間でもないし、人事部所属でもない。
でも、いつか人の職業について考える立場になったとしたら、求人の出し方を変えていきたい。


このエントリーをはてなブックマークに追加

スポンサーリンク
[ 2014/01/05 22:09 ] 人生 | TB(0) | コメント(0)

死後の世界が証明されたとして

死後の世界
そこでは、現世とは姿形は異なるかもしれないが、どうやら私たちは存在しているようだ。

たとえば、このように死後の世界が証明されたとする。
もちろん、死によって無に帰することを恐れている人にとっては朗報であろう。
いや、朗報どころか、言葉では言い表すことのできない感動を得ることだろう。
かく言う私もその一人であることは間違いない。

さて、死後の世界が証明されれば、たしかに嬉しいことである。
ところが、今のまま死後の世界が証明されたとしたら、私は次の2点をが蔓延しないかと懸念する。

1)死後の世界があるのだから、現世を簡単に諦める。
2)死後の世界があるのだから、他者を傷つける者が増える。

簡単に言ってしまえば、死後の世界があるのだから、現世に拘る必要はない。
私の現世にとって、彼は邪魔だからさっさと死後の世界に行ってもらおう。
想像するだけで、とても無秩序な現世になりそうである。


死後の世界の証明によって、現世の秩序が乱れる。
そうであるならば、死後の世界の証明はされない方が良いだろう。

死後の世界を現世が受け入れるには、現世はより一層の成熟を果たさなくてはならない。



このエントリーをはてなブックマークに追加

スポンサーリンク
[ 2013/12/15 14:50 ] 人生 | TB(0) | コメント(0)

自己欺瞞 素直に認める強さ

自分に限界を作るな
とはよく聞く言葉である。

自分で自分の限界を作るのはたしかに良くない。
得てして人間はネガティブに考えるため、本当の限界以下を、自分の限界として設定してしまうからだ。


だが、人間には限界がある。
これは認めなくてはならない。

思わぬ成果を出すこともあるが、それは自分の限界を正しく認識していなかったからである。
決して限界を突破した訳ではない。

人間は有限な存在なのだ。


肝要なことは、以下である。
自分に限界があることは認める。
その上で、自分に限界を勝手に作らないことだ。

自分に限界を作るな、とは、自分は何でもできる、と錯覚させることではない。



このエントリーをはてなブックマークに追加

スポンサーリンク
[ 2013/11/21 12:44 ] 人生 | TB(0) | コメント(0)

やりがいのある仕事

自分にとってやりがいのある仕事

これを会社から与えてもらおうと望むことがあるようだが、いささか疑問である。
会社の第一目標は「利益の最大化」なのだから、そこで働く人の「やりがい」までは面倒みてくれない。
こう考えるのは自然だと思うのだがどうだろう。


会社からやりがいのある仕事を与えてもらおう、などと考えているのは極めて自分本位であり、なおかつ受動的だ。
会社の本来の目的を忘れている。
組織の一員なのだから、意見を言うことを許されている、というのも舞い上がった妄想だ。
所詮は、雇われの身なのだから。


自由なことをやらせてくれる会社がいい、というのも同じくらい自分本位である。
たしかに、自由なことをやらせてくれる会社はある。
しかし、それは会社の決めた範囲内での自由なのだ。
それをはみ出すことは許されないし、雇われの身である以上受け入れねばならぬ事実だ。


さて、少し話がそれたので元に戻そう。
会社からやりがいのある仕事を与えてもらおう、などをいうのは極めて自分本位なことだ。
「やりがい」というのは、仕事に限らず自分で見つけ出すものだ。

「やりがい」のある趣味を他人から与えられましたか?
自分で探したでしょう。

「やりがい」のある人生設計を他人から与えられましたか?
自分で探しているでしょう。


なぜ仕事になった途端、「やりがい」を会社が恵んでくれるのか。
一度冷静になるべきだ。

やりがいのある仕事にありつくには、次の2つの方法しかない。
① 与えられた仕事にやりがいを見つけ出す。
② 自分でやりがいのある仕事を見つけ、それを実践すること。
   雇われ・独立は問わない。


会社に所属して仕事をしている限りは、ほとんど①の選択肢しかないだろう。
自分の担当した仕事からむりやりにでも「やりがい」を見つける努力が必要だ。
①は与えられてばかりで、非常に受動的であり、ただの我慢大会のように見える。
しかし、他人からこちらの都合お構いなしに仕事を任されるため、自分が予想だにしていなかった仕事と出会えるチャンスがある。
世間では、雇われの身なんて、社畜なんて、というが修行の場としては会社は最適と考える。
おまけに、定期的にお金をくれる。
ま、契約をしたのだから当然のことだが。
雇われの身となり会社に尽くすことは「自分探しの旅」という謎な理由をつけて世界中を無意味に飛び回るより、よほど有意義だと考える。


②は本当に自分のやりたい仕事だけが可能である。
もちろん、自分を売り込んで雇われの身となればこの限りではないが。
起業、独立をした際には、自分の好きな仕事を思う存分することができる。
当然、したくない雑務も増えるが。

四六時中やりがいのある仕事に打ち込めるのだから、本来的な仕事のあり方は②である。
しかし、現実にはある組織に所属して仕事をしている人が大半である。
(かく言うわたしも組織の一員である。よくもまあ、偉そうなことを言っているもんだ)
それは、人間は複数で協力することによって、一人では成し遂げられないことを行うことができるからだ。
独立している人は、それら組織の隙間を埋めるような働きをする。


本来的な仕事は②である。
したがって、独立するにせよ、組織に属するにせよ、「やりがい」は事前に見つけるべきだ。
まだ見つかっていないのなら、目前の仕事から無理やりにでも「やりがい」を見出す。
そして、自分を売り込んでいく。

自分が何をしたいのか、は早急に見つけ出すべきだ。


このエントリーをはてなブックマークに追加

スポンサーリンク
[ 2013/09/11 20:51 ] 人生 | TB(0) | コメント(0)

自殺の是非

日本では自殺者が多いことが問題になっている。
近年は毎年約3万の方が自らの命を絶った。
そこに至る想いは様々であっただろう。

日本はこの自殺を問題視し、数を減らそうとしている。
人口構造がいびつになり、働く世代が減少している日本にとって、若者世代の減少というのは確かに痛手だろう。
と考える方はまあ、少数派だろう。
大多数は、なぜ自ら命を絶ったのか。他に道があっただろうに。という感想を抱くのではなかろうか。

時には自ら命を絶った者の弱さを責め、時には命を立つ環境を作った周りを責める。


なぜ自殺をしてはいけないのか。
自分の命なのだから、好きに使っていいではないか。
誰が悲しもうが私の人生なのだから。
生まれるタイミングは選べない。
ならば死ぬタイミングは選ばせてくれ、と。
自殺は自由だ!


ダメなのだ。
自殺はダメなのだ。
自殺を選択することは自由ではない。

自由の大原則は、「私がしていいことは、あなたもしていい」である。

つまり、私がやることは、他の皆もやっていいのだ。
世間の常識と照らし合わせても、そう大きく外れてはいないと思う。

この大原則のために、ぼくたちは自殺を許されない。

自殺とは、自分を殺すことである。
そして、自殺の容認は他殺を許容することになる。
その流れは下記の通りだ。

自殺とは言い換えれば
「私は私を殺していい」

私がしていいことは、あなたもしていいのだから、
「あなたは私を殺していい」

あなたが私を殺してもいいのなら、
「私はあなたを殺してもいい」
他殺の容認である。


自殺の否定は、人間的生活を守るために必要不可欠な約束なのだ。
自殺を容認する限り、他殺をも容認しているのだから。
集団なしには生きていけない人間が、集団を信じることができなくなる。

自殺の容認は社会の崩壊に直結する。
人間が社会的動物である以上、許されない状況だ。

単独では生きていけない弱い動物である。
単独で生きていくことになれば、人類が滅びるのにそう時間はかからないだろう。


このエントリーをはてなブックマークに追加

スポンサーリンク
[ 2013/09/09 20:13 ] 人生 | TB(0) | コメント(2)

何よりも残酷なもの

死とは、この世との決別である。
二度と戻ることはできず、この世に触れることもできない。
死によって、われわれはこの世にとって、よそ者になってしまう。

果たして人は死ぬのか?

精神が生きている限り、人間は死なない。
身体的な死は人間の死ではない。
精神は不滅であるため、肉体が滅んだ後もわれわれは生き続ける。

上記のような話もあるが、受け入れ難い。

精神と身体、二つで一人の人間だとしよう。
構成要素の一つである身体が消滅する。
半分の精神は生きているが、精神はそれ単体では活動できない。
少なくとも、われわれの住む現世では。
身体は消滅し、精神は機能を停止する。
この状況は、まさに死ではないのか。

われわれの身体は、精神にとっての入れ物にすぎない。
だから、身体が死んだ後、精神は次の身体を探しそこを住処とする。
精神が不滅であるため、別の入れ物を手に入れることで、われわれは生き続けることができる。

これを私と呼ぶことができるだろうか?

もはや別人である。
精神にとっては、入れ物かもしれないが、身体にとっては唯一無二の私なのだ。

ある精神とある身体との合体、これは一度しか行うことができない。
だからこそ、われわれ人間はそれぞれが一度きりの存在なのだ。
一度きりの存在である身体が死んだとき、私も死ぬ。


自分の死を経験することはできない。
だから、死は常に他人のものであり、私の死はないのだ、という不思議な主張がある。

ふざけないでいただきたい。
私の死は紛れもなく私にとっての死だ。
死は常に死ぬ本人、当事者の問題だ。
生きている第三者はその死を傍観することしかできない。

私の死を経験することはできないとしても、私が死んだという事実を覆すことは不可能だ。
1は数のうちに入らないかもしれないが、1という事実は疑い無く起きている。
同様に、私の死を経験できなかったとしても、私の死という事実は起こっている。

この世から私が消えてなくなる。
この壮絶な事実にフタをするには、私の死はない、というのはいい考えだ。
だが、そのように逃げたところで、私が死ぬという事実は変わらない。


来世でまた・・・というのもよく聞く。
来世に備えて現世を生きている、というものだ。

来世があるのなら、そこに行ってから身の振り方を考える。
焦らなくてもいずれたどり着くのだから。
それに、来世での処世術を私は知らない。
気を揉んだところで、それこそ徒労というものだ。

来世がわれわれを待っているとして、現世を十分に生きることのできない人間が、どうして来世でうまくやっていけようか。
まずは、現世を十分に生き抜くことを考えよう。

もっとも、来世があるか・ないか、は問題ではない。
この世から消えてなくなることが問題なのだ。



われわれは現世にいる間は、現世しか知ることができない。
ならば、現世に可能な限りしがみつこうではないか。
醜くも美しい現世に。
生きていることは辛いかもしれない。
しかし、死して全ての可能性を断ち切ることもなかろう。




死を受け入れる必要はない。
むしろ、死ぬ瞬間まで死を拒み続けよう。

私は死にたくない。


このエントリーをはてなブックマークに追加

スポンサーリンク
[ 2013/09/06 21:59 ] 人生 | TB(0) | コメント(0)

一人遊び

公園で遊ぶ子供を見かけた。

彼は一人だった。

そして、とても楽しそうに遊んでいた。

何をしていたかって?

水遊びだよ。


僕がみる限り、とても楽しそうだった。
一人なのに。

それに対して僕ら大人ときたらどうだ?

一人で遊ぶのは恥ずかしい。
どうせ、ぼっちだし。

僕らにもあったはずだ。
ただ一人で、無心に没頭できるものが。


それが、世界を知るにつれできなくなってきている。


童心に帰れ、とは言わない。
しかし、童心を思い出せ。

一人であろうとも全てが楽しかったあの頃を。


このエントリーをはてなブックマークに追加

スポンサーリンク
[ 2013/08/31 20:46 ] 人生 | TB(0) | コメント(0)

生きるということ

生きるということは、選択の連続である。
つまり、あるものを拾い上げ、あるものを捨て去る。

そして、あともどりはできない。

一度選ばなかった道は永遠に閉ざされる。


後に同じ選択ができる気もする。
しかし、状況は確実に変わっている。

その時の選択はその時にしかできない。
その時選択しなかったものは永遠に触れることはできない。

日々何気なく選択をしているかもしれない。
しかし、その選択は一生に一度の選択なのだ。


人生は一生に一度の連続である。


このエントリーをはてなブックマークに追加

スポンサーリンク
[ 2013/04/30 22:57 ] 人生 | TB(0) | コメント(0)
プロフィール

智葉 哲三(ちば てつぞう)

Author:智葉 哲三(ちば てつぞう)
自由、幸福な生を主題に哲学します。学生時代はアリストテレスの『ニコマコス倫理学』から幸福を考察した。都内でサラリーマンを始め転勤で新潟へ。まだ若手。日常の出来事なんかも書きます。
連絡はこちらへ tetsuzou.c@gmail.com
★当ブログはリンクフリーです★

twitter
検索フォーム